4月7日、M7.1の余震が発生。東北地方の電気・水道が再びストップするなど、不安な状態が続く中、社員3名で週末に被災地へ入ることを決めます。そして4月9日土曜日。現地でガソリンが調達できないことを想定してハイブリッドカーを借り、3人は早朝5時に神奈川県を出発。午後1時には気仙沼の階上(はしかみ)に到着します。最初に向かったのは、先日問い合わせをくださった高井晋次さんが写真洗浄を続ける、階上中学校(避難所)でした。
一人もくもくと写真を洗浄する高井さんの姿はとても感動的で、またその際紹介いただいた、避難所で陣頭指揮をとる市会議員のリーダーの方の言葉に、私たちは富士フイルムとしての強い使命を感じることになります。
そこで私たちは高井さんから、ポリ袋に詰められたままの約3,000枚の写真を預かりました。これらの写真プリントは、インクジェットプリントなのか? 銀塩写真なのか? どんな傷み具合なのか? どんな状態で集められたのか? 何もわからないでいた私たちに、大切な写真を預けていただけたことは、最初の研究材料として、その後の動きのためにとても重要なことでした。何もかもが平常時とは違う状態の中、私たちを信頼して写真を託された高井さんの決断に対し、預かった私たちも一枚でも多くの写真を救いたいという強い責任感を持ちました。
さらに翌日、南三陸町の志津川地区へと向かいます。TVや新聞で報道された『思い出探し隊』の写真洗浄の現場を訪ねるためでした。ブルーシートで囲われた簡易テントの中、多くの洗浄済写真が乾燥のために吊るされていました。しかしもちろん、まだまだ大量の写真やアルバムが洗浄されるのを待っている状態で、写真について特別な知識をもっていないボランティアの方々が、物資も乏しい中、試行錯誤で作業をしていました。そのとき、私たち富士フイルムとして、とても大切な一つの事実がみえてきました。それは、
ということです。被災した写真の多くは私たち富士フイルムの製品でした。